しいなの自己満足✽推し探しの旅✽

2022/6/21思い直して、推し探しの旅に出た分析マニアの自己満足です。Twitter→@yonichinana417

なぜ人は「推し」を求めるのか





何かの雑誌で、渡辺翔太くんが向井康二くんに対して、(康二くんに好意的なコメントをしたあとで)
「知りすぎないようにしている。嫌なところを知りたくないから」
といった旨の発言をしていたのを見た。
おそらく、まだ今のような、家族みたいな関係ができ上がっていない頃。


極めてドライだ。

私が現実の人間関係で、特に職場で気をつけている心構え。
そして、向井康二くんを好きになってみて、3ヶ月ほどで気づいた真理の一つでもある。



向井康二くんにハマる前に、話題作でもあった『推し、燃ゆ』を読んでいた。

真実味のある炎上の描写。ファンや世間の反応のリアリティに圧倒された。
ただ、主人公の心理や行動は共感どころか理解もできず、「こんなふうに『一方的な関係において』誰かに心を傾けるのは、自分の人生として危険なのでは」と思っていた。
主人公のあかりは、
💧単なるファンというだけなのに、ブログ等でアイドルの人格を推測して「彼はこういう考えの人だ」と発信する。
💧与えられた断片を繋ぎ合わせ、彼の世界とやらを勝手に構築し、彼の見ている世界の一部が見たい、と本気で考えている。
💧彼にまつわること以外では社会人としての営みは困難だと思われる特性があり、それによって起こる問題を直視できない。
言葉通り、彼がいるから生きている、って、アイドル本人からしたら恐怖では?と思う。
あかりは現実世界で一定以上の迷惑を振りまくタイプの人間なのは明らかだから、関わりたくはない。話が逸れました!


が、「推し」ができたことによって、彼女に強く共感する部分もあった。
私も推しに関して、あかりと同じ行動をしている。

まず一つ、
⚡「推しの人格を勝手に推測して発信する」

これ、楽しい。めっちゃ楽しい。
ただ、あかりのように、彼の見ている世界が見たいとは思わないが。
なぜこれが楽しいのかは、もう一つが関わってくると思う。


もう一つは、
⚡⚡推しとは「一方的な関係だからこそ」良いという点。

アイドルとファンの一方的な関係って、ある意味で、ものすごく気が楽だ。
💫周りにも本人にも配慮せず、大声で毎日「好きだよ好きだよ」と繰り返し言える。言うことが許される。

極論、私が犯罪を犯しても、私が死んでも、推しの人生には何の影響も与えない。
そして私が康二くんを嫌いになるのも他の人を推すようになるのも、すべて私の心ひとつで完結できる。

現実では、いいなと思う人がいても、相手がどう考えるかも分からないのに、「好きだ好きだ」と連呼することはできない。
迷惑かもしれないから。そして迷惑がられたら、もう好きだとは言えなくなる。
相手にどう思われるのか。周りにどう見られるのか。常識ある人間なら、当然考える。自分の気持ちだけで行動することはなかなか難しい。

でもアイドルなら、好きだと言えば必ず、相手は喜んでくれる。(もちろん全て「常識の範囲で」の話!常軌を逸した行動をするファンは嫌われる、逮捕される、当たり前)
むしろ「好きだ」と発信すること、大声で言い続けることが相手のためになる。


💫そして逆に、好きだという気持ちが冷めても、何のトラブルも起こり得ない。

恋人であれば、別れる際に相手からの反応があるはずで、トラブルの可能性も含んでいる。気持ちが冷めました、はいそうですか、で必ず終わるわけではない。どう言おうか、いつ言おうかと考え、自分の行動にも制限がかかる。

でも、アイドルとファン、という関係なら、私が明日から康二くんを推さなくなっても、康二くん本人からリアクションが返ってくるわけではない。

ファン同士のつながりがあって、ファンを辞める際にその「友達」に配慮するかもしれないが、タレント本人に配慮する(○○くんごめんね、など)のは、完全な自己満足である。
ファンが減るのはタレントにも痛手だが、だからといって個人的に「ファンを辞めないでくれ」とコンタクトしてくることは、ない。
(個人的な繋がりがあるならそれは、少なくともここで想定しているファンとタレントの関係ではないです。)


気楽だ。
人間関係に伴う、煩わしいやりとりがない。

「遣り取り」が、ないのである😕

あるのは、「遣り」または「取り」のどちらか一方。

コミュニケーションという単語には「相互」という意味が含まれるが、アイドルとファンの関係は、一対一の相互関係ではありえない。
アイドル一対ファン無数の歪な関係である。

精神的負担が、実際に関係する人間同士とは全く違う。相手および周囲の人間への配慮と、関係にまつわるやりとりという面で。




人格を創作することも、この一方的な関係によって楽しくできる。
本当のことが分からない、本人から「面と向かって」否定されることもない、自分の見た、自分が捉えた虚像を、真実として信じることが許される。

同様に、これが最も重要であるが、
💫💫見たくないことは簡単に「見なかった」ことにできる。
自分に都合が悪ければ、その部分を消去できる。何か問題を含んでいても、自分さえ「見なければ」そもそも問題ではなくなる。

だって、やりとりのない関係だから。

緊密にコミュニケーションしなければならない場合は、都合の悪い部分を直視しないせいで問題が増幅することもある。そう簡単に「見なかった」ことにはできない。伴うリスクが大きすぎる。
見なかったことにするのではなく、マイナスの部分には対策を立て、うまく関係が回るように気を配るのが現実的である。

それに比べて、ファンが勝手にタレントの人格を推測し、「私はこう思ってる、だからこの人はこういう人だ」とリスクなく思い込んでも良い安心感たるや。

誰が何と言おうと、私にとってこの人はこういう人なんだもん!好き!という、いわゆるお花畑思考が許される世界なのである。



完全なる自己満足。一種のカタルシス。現実逃避ができる陶酔感。



だから世間が推しを求めるのだと、私は理解している。
(そしてタレントを「全肯定」するファンが多いのも、この自己満足のためであり、タレントのためではなく全てファン自身のためだと思っている。)(まぁ、結局『大切にしている人間関係』は自己満足の世界ではあるけど、程度の差で)




誰かを深く知ることは、自分にとって都合の悪い面を知る可能性を必ず含む。
現実のコミュニケーションでは、知りたくなくても、見たくなくても見てしまうことが多々あり、それらを含めての人物評価をせざるを得なくなる。

だから冒頭の渡辺翔太くんのスタンスは、今後も関係を築く必要のある職場の人間や、本当に好きになってしまった人以外でひどく正しいと私は思う。
深く知らなければ、好印象のままでいられる。


推しもそうかと思っていたけど、少し違うんだなと、書いていて分かった。

推しは、深く知っていく際に見た悪い面を、見なかったことにできてしまう。
自分の心一つで、どんな印象を持つかを決定できる。誰かの人格についての絶対的な決定権が自分にある。自分だけの解釈で、自分にとって都合の良い世界を構築できてしまう。

リアルでは、ありえない。いや、正確にはありえるが、トラブルの可能性がつきまとう。

推しなら、勝手に思い込んで幸せな世界を作ってしまえば、少なくとも推し本人との間でトラブルは起こりえない。
ある意味では、安心、安全。
(推しがいるせいで苦しくなる心理については、またどこかで)



私はこれからも、向井康二くんの見たい部分だけを見る。
自分に都合の悪い面についての感想は書き散らすだろうが、今のところそんな部分に特にこだわることもない。
誹謗中傷でなければ、発言に(通常以上の)責任を持つ必要もない。私はこう受けとりました、という主観の発表である。
そして能天気に「康二くん好きだ!」とも言い続けられたら、私が楽しい。



なるほど、推しって楽しい。



最後に、康二くんのファンとしては、渡辺翔太くんが向井康二くんの気に入らない部分をたくさん知って、それでも康二くんが好きだという、本当の意味での「大切な人との関係」を築いていることを願うばかりである。💙🧡⛄





自ら読み直す気もない長文、もしお読みくださった方がいらしたら、お目汚し失礼しました。

パソコンできちんと章立てして書けば、もっと分かりやすい文章になるのかも……さすがにフリック入力疲れた。けど、いつもどおり楽しかったです!

人生に必要なのは「自己満足」だということが、今回も再認識できました🥳